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2016年3月15日火曜日

AP通信社が 福島原発事故避難者の実情を世界各国メディア数千社に送信

AP通信社 特派員影山優理さんが 下記の記事を世界各国メディア数千社に送信しました。    

避難者に関しての記事で、多くの方を取材し、紹介してくださいましたが
今回は子ども脱被ばく裁判・原告の関係者である小野田さんと原告の中手さん
キビタキの会(避難者の会)の岡田めぐみさんの話、また「原発避難白書」の執筆者のお一人である木野さんが紹介されています。


ワシントンポスト

以下AP通信記事より(写真も)(※キャプションはブログ作成者) 



浪江町から東京に避難している小野田さん




放射能汚染への恐怖が日本の原発事故避難者の帰宅を妨げている

筆者:ユリ・カゲヤマ

彼らは世界で最も豊かで平和な国家のひとつに住んでいるが、難民のような気持ちである。
五年前、津波に襲われた自宅近くの原発メルトダウンにより、放射能が放出され、彼らはとっさに持てるだけの物を抱えて自宅から逃れた。政府によると、この福島の惨事で15万人が自宅から非難を余儀なくされた。

10万人が未だに全国各地に散らばっているが、その中にはバラックのような仮設住宅に住んでいる者もあれば、政府が支給した、遠く離れたアパートに住んでいる者もいる。

政府当局は、これまで避難区域に指定されていた原発付近地域の避難解除をし始めたが、ほんの少数の元住民しか故郷に戻っていない。例えば、9月に避難解除された楢葉町では、事故前の人口の6%(459人)だけが戻った。

多くの住民は、いまだに続く放射能汚染を恐れ、戻りたくないと言う。ある者たちは、新しい土地で人生を再スタートしようと頑張ってきたので、大変な引っ越しを再びしたくないとのこと。

政府の住宅支援制度が来年終了するので、多くの住民は故郷に戻るようプレッシャーを掛けられているように思っている。
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浪江の我が家を貼り絵で描いた額を持った小野田さん

トキコ・オノダ、80歳、は東京の端にある、21階建ての狭いアパートに夫と一緒に住んでいる。そこには他に約千人の福島惨事避難者も家賃を免除されて住んでいる。

住民が消えてしまった福島県のいくつかの町村は、元住民に対し、ある場所は居住にもう安全だから戻るように、と呼びかけている。表土や低木を除去する、膨大な土地の大掛かりな除染作業が行われているが、この作業は何十kmもの農地や沿岸線地帯を土(草も生えていない)に変えていて、そこには(除染で生じた)草、土、等が入った無数のごみ袋が置かれている。

住居支援手当が20174月に終了する時、政府借り上げアパートに住む者は家賃を支払い始めるか、そこを出て行かなければならない。まだ避難指定区域になっている場所に居住していた者は、引き続き住居手当を受け取ることができる。

今、避難命令が徐々に解除されつつある浪江町が故郷だったオノダは、彼女の住居手当が打ち切られることを恐れている。彼女は故郷に戻るにはまだ安全だと考えていない。原発が安全だと信じ込んだことも騙されたと思っている。

オノダは政府が彼女のような避難者たちを如何に扱っているかに対し、怒りを込めて話す。なぜ政府は彼女に他で家を建てるために土地を与えてくれないのか、と。

彼女が福島に住んでいた頃は、大きな家を所有し、庭では野菜や牡丹を栽培し、(近くの)丘(里山)ではきのこやぜんまい・わらび取りもした。

「私たちはあの家を建てるのに、一生懸命働いた」と時には涙をふきながら彼女は話す。「私たちは温泉旅行を計画する以外、この世で何の心配・不自由もなかった」のだと。

あの家は最早廃墟と化した。それは311日の震度9.0の地震にも耐えたが、その後空き巣に入られいろいろ持ち去られ、ネズミには壁が齧られてしまった。最後に家を見に行った時、線量計は4μSv/hを表示していたが、それは東京の平均空間線量の100倍に相当する。それは直ちに命を脅かすものではないが、オノダを不安にさせる。将来、癌や他の疾患の心配をせざるを得ないからだ。

福島の惨事の前、政府は安全な年間被ばく線量限度を1mSvとしていたが、その後、緊急事態の場合、ICRPが勧める年間被ばく線量限度20mSvを採用し、1mSvは長期に掲げる目的になった。

オノダは状況に応じようと精一杯努力したと言う。友達も出来、お茶会、絵画や手芸サークルにも参加し、忙しくしている。

そして今、彼女がどのようなつらい経験を経てきたにもかかわらず、彼らは(政府当局)彼女が故郷に戻ることを欲している。

「避難の経験をした者だけが、(私の気持ちを)理解できるでしょう」と彼女は言う。

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ジャーナリストであり、2015年に出版された「原発避難白書」という本の著者・編集者であるリュウイチ・キノは、「オノダのような避難者は棄民として扱われ、社会から遺棄され、忘れ去られようとしている」と語る。政府の「避難者」の定義が定まっていない事実を指摘し、「我々は、彼らの(避難者の)本当の数を知らない」と彼は語る。福島県と近隣諸県からの避難者の総数は、20万人にも上るかも知れない、とキノは言う。

「避難」とは、一時的状況で、戻る場所があることを意味する、とキノは言う。

福島の惨事で避難を余儀なくされた人々に対し、住宅支援手当として政府は年間400億円を支出している。政府は東電が支払う毎月の賠償金も支援しており、これまで支払った累積総額は5.9兆円に上る。

楢葉町で、ボランティア達が2週間線量計を身に着け調査したところ、年間平均線量は1.12mSvという結果が出た。

避難指定解除を担当している政府役人のユージ・イシザキは、単に政策に従っているだけ、と話す。

「放射能汚染に関しては、何が安全で、何が安全でないか、という明白な境界線はない」と彼は語る。「1mSvでさえも、全く安全でないかもしれない」と。

原発事故による健康被害を研究している主な学術研究機関である福島医科大学は、これまで運動不足、栄養不足、それに精神的ストレスに起因する病気は見られるが、放射能が原因とされる疾患は見つかっていない、と主張する。

事故当時18歳又はそれ未満だった37万人を対象とした検査の結果で、100人以上が甲状腺癌と診断されたことに関し、大学は徹底した検査や「スクリーニング効果」であると主張する。

何人かの科学者は、それは(甲状腺がんと診断された人々の数)、普通子供に於ける甲状腺がん患者は100万人中二人か三人ということを考慮すれば、非常に多い、と話す。1986年のチェルノブイリ原発事故後、ウクライナやベラルーシでは子供の甲状腺がんが急激に増えた。

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セイイチ・ナカテは、福島から600キロ離れた札幌で、妻や13歳と11歳の子供との新しい人生に比較的満足している。そこでは福島から移った約1500人の人たちと支援ネットワークを立ち上げ、時々皆で飲み会に集まり、就活の助け合いをしている。

ナカテは最近家を購入し、会社を立ち上げ、元福島住民を雇って体の不自由な人々の為にプロの介護職員を斡旋している。彼は、放射能汚染で危険な福島には、二度と戻らないと宣言している。

彼は政府が最初から放射能汚染のリスクに関して、過小評価していると信じていて、彼らを(政府当局を)信用していない。

惨事の直後、彼は妻と子供たちを日本の南部にある親戚の家に避難させた。一年後、家族は札幌で一緒に暮らし始めた。住宅支援手当の終了は、避難者にとって、故郷に戻るよう圧力を掛けられているような思いだ、と彼は語る。

「政府は福島の住民を、そして子供さえも見捨てた。今の政策は我々を故郷に戻ることを強要している。それは人々に放射能を押し付ける政策だ」と彼は言う。

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四児の母親であるメグミ・オカダは、東京での住宅支援手当を引き続き受けられるよう、署名運動を展開したり、政府当局者に会ったりしながら一生懸命戦っている。

彼女は政府役人が「福島の殆どの地域ではいかに皆が普通に暮らしているか」と繰り返すことに対し、彼らの言葉を無視・軽視する。彼女は自分の子供たちが福島の食物を食たり空気を吸って欲しくないのだ。子供たちの健康を確認するため、定期的な血液検査も受けさせている。

彼女の夫は東京で建設作業員として就職した。彼らのアパートはたった2部屋と台所だけだが、家賃は住宅支援でカバーされている。オカダは働きたいと思っているが、日本では公立託児所はまだまだ数が少なく、私立託児所は費用がとても高い。

「この5年で何も進展していない」と彼女は言う。「私たちは避難を続ける権利がある」と。オカダは、可能ならば、国連難民としての認定申請をし、家族でヨーロッパに移住することを望んでいる。「現在、日本人は難民にはなれないと知っているが、なれたらいいのに」と語る。「これは私たちには生きることだから」と。

訳者: 友田シズエ



元記事はこちら



小野田さんは昨年3月11日のNHKクローズアップ現代でも紹介されています。


“帰りたい… 帰れない…” - NHK クローズアップ現代 - NHKオンライン

2015年3月11日 - 中でも多いのが、今も住民全員が避難を続ける浪江町の人たち。

小野田廣治さん・ トキ子さん夫婦です。 夫婦が身を寄せているのは21階、6畳2間の部屋。
浪江町で 暮らしていたころは山できのこを採り、庭で野菜を育てるのが楽しみでした。

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